同じ分子で +24 と −58 ── 薬の飲み合わせを決める P450 の鉄を3つの手法で計算したら、答えの符号まで変わった

同じ分子を、同じ模型で、3 つの方法で計算しました。答えの符号が変わりました。密度汎関数法は「4 重項のほうが 17 kcal/mol 高い」と言い、活性空間内の厳密対角化は「58 kcal/mol 低い」と言います。どちらかが大きく間違っています。

題材は P450。薬の飲み合わせを決める肝臓の酵素です。その中心にある鉄 1 個の、電子の並び方を計算しました。NEDO の量子懸賞金事業で、量子コンピュータが本当に要る場所を探している途中の記録です。

結論から言うと、この大きさではまだ量子コンピュータは要りません。ただ、なぜ古典計算が苦しむのかは、はっきり数字で見えました。順に書きます。

450 という名前

P450 は、肝臓をはじめ体のあちこちにある酵素の一族です。名前の「450」は、一酸化炭素をくっつけたときに 450 nm(青紫)の光を強く吸うことから付きました。この色を生んでいるのが、中心の鉄と、それを囲むポルフィリンという平たい分子です。

ヒトが飲む薬の多くは、この一族が分解します。中でも CYP3A4 という型が担当する薬が特に多く、飲み合わせの問題の多くはここで起きます。

飲み合わせが起きる仕組み

2 つの薬を一緒に飲んだとき、片方が鉄の席を占領してしまうことがあります。そうなるともう片方は分解されず、血の中に溜まります。グレープフルーツジュースが一部の薬と一緒に飲めないのも、同じ理由です。

薬 A アゾール系の抗真菌薬など 薬 B 分解してほしい薬 CYP3A4 Fe 結合できる席は 1 つだけ 先に鉄をつかむ 席が空かない B は残る 血中濃度が上がる 効きすぎ・副作用
薬 A が鉄に結合すると、薬 B の分解が止まる。これが飲み合わせ(薬物相互作用)のいちばん単純な形。

鉄のまわりの形

P450 を他のヘムタンパク質(血液のヘモグロビンなど)と分けているのは、鉄の真下にシステインというアミノ酸の硫黄が結合していることです。真上の 6 番目の席は空いていて、ふだんは水が座っています。

分解される薬が近づくと水が外れ、空いた席に酸素が入って反応が始まります。一方、アゾール系の薬(ケトコナゾール、フルコナゾールなど)は、この席に自分の窒素を差し込んで鉄を押さえつけます。酸素が入れなくなるので、酵素は止まります。これを II 型結合と呼びます。

N N ポルフィリン環(窒素 4 個で鉄をはさむ) Fe S システインの硫黄 P450 だけが持つ目印 L 6 番目の席 水/酸素/薬の窒素 点線の中は、どの薬のときも同じ形(共通部分)
鉄をはさむポルフィリン環と、真下のシステインは常に同じ。変わるのは真上の 6 番目の席に何が座るかだけ。

電子の向きの揃い方=スピン状態

P450 の鉄は、ふつう 3 価(Fe³⁺)で、d 電子を 5 個持っています。この 5 個が入る部屋は 5 つあり、下の 3 つが低く、上の 2 つが高くなっています。電子が部屋をどう使うかで、3 通りの状態ができます。

名前は、向きの揃っていない電子の数で決まります。5 個なら 6 重項、3 個なら 4 重項、1 個なら 2 重項です。高スピン(6 重項)になると鉄は電子を受け取りやすくなり、反応が進みます。低スピン(2 重項)は、ふだんの休んでいる状態です。アゾール系の薬は、鉄を低スピン側に引き戻して反応を止めます。

高い部屋 低い部屋 6 重項(高スピン) 向きの揃わない電子 5 個 分解される薬が入ったとき 4 重項(中間) 3 個 反応の途中で現れる 2 重項(低スピン) 1 個 ふだん/薬で止めたとき 矢印 1 本が電子 1 個。上下の向きが揃っていない電子の数で、状態の名前が決まる。
鉄(Ⅲ)の d 電子 5 個の並び方 3 通り。どれが一番安定かが、薬が効くか止まるかを決める。

鉄が 1 周まわる

薬を 1 回分解するまでに、鉄は 8 つの状態を通ります。電子を 2 個、プロトンを 2 個、酸素分子を 1 個受け取り、最後に酸素原子 1 個を薬に渡して元に戻ります。

この周回のあいだ、鉄の酸化数は 3 価 → 2 価 → 3 価 → 4 価と変わり、スピン状態も入れ替わります。どの段で止まるかが、薬が分解されるか、酵素が止まるかを決めます。アゾール系の薬は ② の段で席を奪い、周回そのものを始めさせません。

Fe 1 個の鉄が 8 つの顔を持つ 1 休止状態 Fe(III) 低スピン・水あり 2 薬が入る 水が外れ 高スピンへ 3 電子 1 個目 Fe(II) になる 4 酸素が結合 Fe(III)–O₂⁻ 5 電子 2 個目 パーオキソ型 6 プロトン 1 個目 Compound 0 7 O–O が切れる Compound I + 水 8 水素を引き抜く 酸素を渡して 1 に戻る
P450 の触媒サイクル。紫で囲んだ ② が、アゾール系の薬が割り込む段。ここで席を奪われると、以降の周回が起きない。

反応の山は 2 本ある

反応の主役は Compound I と呼ばれる状態です。鉄に酸素が 1 つ付いた、非常に反応性の高い姿で、ここから薬の水素を引き抜きます。

おもしろいのは、この状態では 2 重項と 4 重項のエネルギーがほとんど同じだということです。反応は 2 本の道を同時に進みます。これを二状態反応性と呼びます(Shaik らの提唱)。どちらの道を多く通るかで、できる生成物の比率が変わります。つまり、わずかなエネルギー差が結果を左右します。

エネルギー 反応の進み方 → 4 重項 2 重項 山の高さの差はわずか。ここが生成物の比率を決める 出発点はほぼ同じ高さ Compound I + 薬 水素を引き抜いたあと
二状態反応性。2 つのスピン状態が並走し、どちらの山を越えるかで結果が変わるため、数 kcal/mol の精度が要る。

なお、Compound I が水素を引き抜くとき、水素は山を越えるのではなく量子的に壁をすり抜けます(トンネル効果)。証拠は同位体効果です。水素を重水素に替えると反応が何倍も遅くなり、その比は古典的な説明で出せる範囲を超えることがあります。P450 は、量子力学が実測に現れている生体分子の代表例です。

3 つの手法で計算したら、符号が変わった

ここからが本題です。鉄の d 電子 5 個は互いに強く影響しあうので、ふつうの計算手法では精度が足りません。

P450 の鉄のまわりだけを切り出した模型を作り、6 番目の席に 10 種類の分子を置いて、4 重項と 2 重項のエネルギー差を 3 つの方法で計算しました。使ったのは CAS(9e,12o)、つまり 12 本の軌道に 9 個の電子を入れて厳密に扱う模型です。

B3LYP(密度汎関数法) CASCI(12 軌道) NEVPT2(12 軌道)
−60 −40 −20 0 +20 4 重項 − 2 重項(kcal/mol) ← 4 重項のほうが安定 2 重項が安定 → 水 水 · B3LYP −3.2 水 · CASCI +19.5 水 · NEVPT2 +11.6 イミダゾール イミダゾール · B3LYP +9.4 イミダゾール · CASCI −25.2 イミダゾール · NEVPT2 +24.0 1-メチルイミダゾール 1-メチルイミダゾール · B3LYP +17.0 1-メチルイミダゾール · CASCI −26.0 1-メチルイミダゾール · NEVPT2 +2.0 4-メチルイミダゾール 4-メチルイミダゾール · B3LYP +17.2 4-メチルイミダゾール · CASCI −28.5 4-メチルイミダゾール · NEVPT2 +1.6 ピリジン B3LYP CASCI NEVPT2 ピリジン · B3LYP +17.3 ピリジン · CASCI −49.1 ピリジン · NEVPT2 −4.3 4-メチルピリジン 4-メチルピリジン · B3LYP +19.5 4-メチルピリジン · CASCI −31.7 4-メチルピリジン · NEVPT2 +7.9 1,2,4-トリアゾール 1,2,4-トリアゾール · B3LYP +16.8 1,2,4-トリアゾール · CASCI −58.2 1,2,4-トリアゾール · NEVPT2 +4.9 チアゾール チアゾール · B3LYP +17.2 チアゾール · CASCI −33.5 チアゾール · NEVPT2 +3.9 アセトニトリル アセトニトリル · B3LYP +18.5 アセトニトリル · CASCI −20.3 アセトニトリル · NEVPT2 +9.0 アンモニア アンモニア · B3LYP +17.3 アンモニア · CASCI −26.6 アンモニア · NEVPT2 +11.8
同じ分子・同じ模型でも、計算手法を変えると答えは 80 kcal/mol 近く動き、どちらが安定かの順序まで入れ替わる。薬の効き目を左右するのは数 kcal/mol の差なので、この揺れでは判断できない。
6 番目の席の分子B3LYPCASCI(12o)NEVPT2(12o)
水−3.2+19.5+11.6
イミダゾール+9.4−25.2+24.0
1-メチルイミダゾール+17.0−26.0+2.0
4-メチルイミダゾール+17.2−28.5+1.6
ピリジン+17.3−49.1−4.3
4-メチルピリジン+19.5−31.7+7.9
1,2,4-トリアゾール+16.8−58.2+4.9
チアゾール+17.2−33.5+3.9
アセトニトリル+18.5−20.3+9.0
アンモニア+17.3−26.6+11.8
4 重項 − 2 重項のエネルギー差(kcal/mol)。正なら 2 重項が安定。模型は CAS(9e,12o)。

読み取れることは 3 つです。

  • B3LYP は、水以外のほぼ全部で +17 前後に張り付きます。分子の違いをほとんど区別していません。
  • CASCI(12 軌道) は、すべて大きく負に振れます。12 軌道の外にある効果を丸ごと無視しているためです。
  • NEVPT2 はその外側を補正したもので、分子ごとに −4 から +24 まで散らばります。もっともらしく見えますが、軌道を 7 本から 12 本に増やすだけで答えが 17〜26 kcal/mol 動きました。この基準自体がまだ安定していません。

薬の効き目を左右するのは数 kcal/mol の差です。この揺れでは判断できません。

組み合わせが爆発する

なぜこうなるのか。鉄の d 電子がやっかいなのは、「どの電子がどの部屋に入るか」の組み合わせを全部まとめて考えないと答えが出ないからです。ひとつの並べ方(配置)で代表させる、ということができません。

どのくらい駄目なのかは、計算の中身を見ると分かります。2 重項では主役の配置ひとつが波動関数の 77〜91% を占めるので、まだ「ひとつの配置+補正」で粘れます。ところが 4 重項では主役の配置が 35〜65% しかありません。残りは無数の配置に分かれています。密度汎関数法は実質ひとつの配置で考える手法なので、ここで精度を落とします。

では全部数えればいいかというと、数が足りません。扱う軌道を増やすと、配置の数は一気に増えます。

電子配置の数(対数目盛り) 1 10¹⁰ 10²⁰ 10³⁰ 古典で全部並べて解ける限界 12 軌道(いまの模型) 鉄の d 軌道まわり・24 量子ビット 3.9×10⁵ 20 軌道 結合の相手まで・40 量子ビット 2.1×10¹⁰ 30 軌道 60 量子ビット 2.3×10¹⁶ 40 軌道 80 量子ビット 1.8×10²² 50 軌道 ポルフィリン環まで・100 量子ビット 1.5×10²⁸
活性空間に入れる軌道を増やすと、数える配置の数が指数的に増える。古典のコンピュータが全部並べて厳密に解けるのは、おおよそ 1010 個あたりまで。

鉄の d 軌道だけの 12 軌道なら、数十万個なので数秒で終わります。けれど、ポルフィリン環まで含めた 50 軌道では 1028 個です。1 秒に 1 兆個数えても、宇宙の年齢の何億倍もかかります。

もちろん、全部数えなくても済ませる古典の工夫はあります。DMRG や選択 CI は、効きそうな配置だけを賢く選ぶ手法で、実際とても強力です。ただし「どれが効きそうか」の見積もりに仮定が入るので、電子が強く絡み合った系では取りこぼしが起こります。P450 の鉄は、まさにその系です。

量子コンピュータは何をするのか

量子コンピュータの強みは、この膨大な配置の重ね合わせをそのまま持てることです。軌道 1 本につき量子ビットを 2 個(上向きの席と下向きの席)使うので、50 軌道でも 100 量子ビットで表せます。1028 個の配置を 100 個の量子ビットが抱える、という勘定です。

ただし、持てることと、答えが読み出せることは別です。量子の状態は測った瞬間に 1 つの配置へ潰れます。そこで実際には、量子と古典で仕事を分けます。いま有望とされている SQD(サンプルに基づく量子対角化、2024 年に提案)では、量子側は「ありそうな配置を挙げる」までを担当し、エネルギーを決めるのは手元の古典計算です。

ここから先が量子コンピュータの担当 分子のハミルトニアン 電子どうしの力の式 量子回路に変換 軌道 1 本=量子ビット 2 個 実行して測る 数万回くり返す 電子配置の候補 0 と 1 の列が数万本 手元で対角化 候補の中だけで解く エネルギー スピン状態ごとの値 紫の枠が量子コンピュータの担当。量子側が出すのは「配置の候補」までで、 最後の答えを出すのは手元の古典計算。だから雑音の影響を受けにくい。
SQD の流れ。量子側は候補を挙げるところまで。この分け方のおかげで、測定に多少の誤りが混ざっても、最後のエネルギーは古典側が正しく決められる。

IBM はこの方式で、50 量子ビットを超える規模の分子計算を実機で行っています。量子コンピュータが「化学で役に立つかもしれない」と言われるとき、いま一番現実味があるのがこの線です。

それでも、まだ届いていない

正直なところも書いておきます。

  • いまの模型では、量子コンピュータは要りません。12 軌道なら古典計算で厳密に解けます(数秒)。量子を使う理由がありません。
  • 古典の手法が強い。同じ大きさの計算空間で比べると、量子が挙げた配置の候補が古典の選択 CI に勝ったのは、試した 8 分子のうち 5 件、しかも測定回数が少ないときだけでした。回数を増やすと古典が追い越します。
  • 雑音がある。いまの量子コンピュータは計算の途中で誤りが混ざります。SQD はこれに比較的強い方式ですが、それでも回路を深くすると候補の質が落ちます。
  • 勝負は 30〜50 軌道から。古典で厳密に解けなくなるのはこの先です。量子が本当に効くとすればそこで、誤り訂正つきの機械が必要になるかもしれません。

「量子コンピュータで創薬」と言うのは簡単ですが、どこから先が本当に量子の仕事なのかは、こうして一段ずつ測らないと分かりません。12 軌道では古典の勝ち。これが今回の実測です。


計算に使ったのは、P450 の鉄まわりだけを切り出した模型です。ポルフィリン環の代わりにアンモニア 4 個、システインの代わりにメチルチオラートを置き、鉄の d 軌道を中心に 12 本の軌道・9 個の電子を厳密に扱っています。タンパク質全体の効果は入っていません。B3LYP = 密度汎関数法、CASCI = 活性空間内の厳密対角化、NEVPT2 = 活性空間の外を摂動で補正した手法。

この記事を書いた人

安河内 竜二(Ryuji Yasukochi) — セキュリティ研究者・組込みエンジニア。車載地図ソフトの脆弱性 CVE-2026-33524 / CVE-2026-33666 の発見者。当ブログの記事はすべて本人の実測・実装に基づく一次情報です。詳しいプロフィール

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